エッセイ一覧

ESSAYS

ふるさと筑波賛歌

出典:朝日新聞 / 2013年3月〜2014年4月連載

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アトリエ(1)

色あせぬ「紫峰」の記憶

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北条辺り

筑波山に初めて登ったのは、中学一年生の夏休みだった。3人の先生方と、気のあった7、8人の男女混合のハイキングで、頂上で撮った記念写真が今も古いアルバムに残っている。

麻生から定期船で土浦港に着き、土浦駅からディゼルカーでふもとまで行った。弁慶七戻りの大岩はさすがに怖かった記憶がある。それにしても、あの頃のきれいな霞ヶ浦と関東一の名山「山紫水明」は子供心にふるさとの自慢だった。

筑波嶺(ね)に/雪かも降らる/否(いな)をかも/愛(かな)しき児(こ)ろが/布(にの)干さるかも(筑波山に雪が降ったのかなぁ。いや、そうじゃないなぁ、きっと働き者のおいらの可愛いあの子がさらし布を干したんだ)。高校時代、夢中になって読んでいた万葉集の中の東(あずま)歌(うた)である。うす紫の山肌に純白の布は関東一円から見えたに違いない。男も女も恋人や家族を思いながら労働に汗していたのだろう。この地は気候温暖な豊(ほう)穣(じょう)の常陸(ひたち)の国だった。

裾野の北条は、寒暖の差でおいしい「筑波米」の産地である。スケッチはここで描いた。筑波山正面の顔である。筑波古道入り口の神(かん)郡(ごおり)には古い町並みが残り、中に、「あげまんじゅう」で評判の桜井商店があった。土浦一高で教鞭をとっていたコスモスの咲く好天の一日、男子生徒らと土浦からりんりんロードを自転車で来たことを思い出した。


昨日雨、今日は晴れ

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水戸の街から

茨城近代美術館での展覧会のオープニングの日、常磐道を水戸に向かった。その日は快晴で、土浦‐岩間辺りから見える筑波山はセルリアンブルーで、とても美しかった。

小石川の家から水戸市内までは120キロ程度。すいていたこともあるが、東茨城インターまで約一時間半だった。思ったよりずいぶん水戸は近い。パーティには早すぎたので、市内のデパートに車を入れ、7階の飲食店街で昼食をとった。見晴らしのいいトイレからさっき見て通った筑波山が小さく、ひときわ高くそびえ立つ県庁の右手に見えた。

さて芸術では、日本画の横山大観、洋画の中村彝(つね)、彫刻の木ノ内克(よし)は水戸の誇りだ。

近年では、関南(なん)沖(ちゅう)の書を思い出す。お目にかかったことも無く、ただ、遠目に憧れていただけだったが、自由でたおやかな墨が魅力だった。今ぼくの書斎に先生の『昨日雨今日晴』という作品が掛っている。永く水戸に暮らし、米寿を前に一昨年、出生地の牛久沼のほとり足高に隠居された、教育者で画家の片山八重子さんからいただいた生前形見分けの一品である。「あんたはあんたのままでいいんだよ」と、大切な座右の銘を惜しげもなく手放してぼくの背中を押してくださった。判断が早く気風(きっぷ)がいい。男でもこういう方はめったにいない。そして現在、かつて茨城大学付属小学校の「片山流しつけ」で育まれた教え子たちが各方面で活躍している。


鳥が群れ舞う北浦夕景

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鹿(ろっ)行(こう)大橋辺り

北浦という呼び名は、霞ヶ浦を西浦とすることからきているのだろう。鹿嶋から鉾田まで南北に細長く、このことは長い間地域の近代化を妨(さまた)げる原因でもあった。

子どもの頃、鹿(ろっ)行(こう)大橋が架かるまで唯一「札(ふだ)の渡し」があった。対岸に嫁いでいた姉を訪ねる祖母に連れられて、何度かさっぱ舟に乗った記憶がある。船べりから手を出して触った水の感触を今も覚えている。あの時代、この地域への往来は大変だったと思う。

大学を出てすぐ母校の麻生高校に赴任した。その時、高一の時の担任でもあった石橋喜代雄先生に頼みこまれてヨット部の顧問になった。そういう柄ではなかったが、部活上の危険監視をしながら毎日霞ケ浦をスケッチできたことは幸運だった。葦辺(あしべ)のゆらぎ、船と水との関係、大きくは自然との関わりや風土性など、今思えば絵を描く上で大切な本物をじっくり見るいい勉強になった。

今先生の白いクルーザーヨットが、北浦に掛る二本目の新しい橋の近く、白浜のドックに係留されている。お年を召された先生に「小牧君どうだ、乗ってみないか」と何度もすすめられるのだが、どうも北浦にヨットは似合わないと決めつけているぼくがいる。このスケッチは鹿行大橋のたもと「くまのや」の駐車場で描いた。たそがれの寒空にたくさんの鳥が舞っていて、そのはるか向こうに小さく筑波山があった。


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アトリエ(2)

哀愁の田園風景

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恋瀬川から

もっとも筑波山が高くそびえて見えるのは、石岡の小川街道からであろう。そして、次は高浜だと思う。東田中の大きな交差点を霞ヶ浦に近づくように曲がって、坂を降りるとそこが高浜である。

遠く『常陸風土記』に「源は筑波の山より出で、西より東に流れ、郡を経巡(へめぐ)りて、高浜の海に入(い)る」と書かれているように、筑波山中腹あたりから水を集めて霞ヶ浦に注ぐのが恋瀬川である。渡る橋が愛郷(あいきょう)橋で、川の西側にサイクリングロードがあった。ぼくはこの土手沿いの道からスケッチをした。

さて常陸風土記にこの地を詠んだ歌「高浜に/来寄(きよ)する浪(なみ)の/沖つ浪/寄すとも寄らじ/子らにし寄らば」(高浜に沖から波が寄せてくるように、女の子たちがどんなにおいらに言い寄っても、おいらの心は変わらないよ~。おまえがおいらだけに惚れてくれたら)というのがある。なんともおおらかでいい。

景色の真ん中には常磐線の鉄橋が架かっていて、時折、電車が通った。中でも貨物列車の長い連結は昔からのままで、相変らず今も哀愁がある。近くの出身で、昨年亡くなった切り絵作家の滝平二郎さんが、よく田園の中に子供が遊ぶ作品を発表されていた。都会の人々にはほっとする情景で、多くの人の癒しだった。東京から一時間と少し、駅のホームから田んぼが続き、昔と変わらない「ふるさと」の原風景がここにはまだあった。


学友・渡辺篤史の思い出

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田植えの頃 下妻辺り

当時、NHK連続小説「おはなはん」に渡辺篤史は寿司屋の板前役で出演していた。その放映を下宿の小母さんは毎日楽しみにしていて、彼が出ている朝は『小牧さん出てるわよ~』と廊下の下から大声を出すので、ぼくにはありがたい目覚まし代わりだった。

渡辺が下宿に来るのは、たいがい試験前だった。リンゴを二つ買ってきて、道路から声をかけ、一つをベランダのぼくに放り投げてから上がって来た。彼が俳優だとは、小母さんが教えてくれるまで知らなかった。

大学一年の初夏、杉並区和田の銀行員宅台所隣の三畳間に下宿していたぼくは、月曜カレー、火曜は親子丼という風に、曜日で献立が決まっている晩飯がいやで、わずか3カ月で世田谷の桜上水に移った。その時調布の石原に住んでいた、学友で下妻生まれの渡辺が近所からトラックを借りてくれて二人で引越しをした。彼の家を訪ねたぼくに、祖母があの有名な長塚節(たかし)のことを、いとこの「節ちゃん」と言っていた。どうやら渡辺の家は、節の母方の近い親戚なのだとその時わかった。

彼は役作りのため、スポーツジムや、乗馬の練習にも通った。ある日、親元を独立したから来ないかと誘われて仙川のマンションに行った。玄関を開けると靴が外まではみ出す程あるのを見て、役者も大変だと思った。間もなく日本中の大学が学園闘争に突入するなど、夢にも思わなかった43年前の話である。


長塚節しのんだ筑西路

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雨の石下から

長塚節(たかし)の生家を訪ねる数日前、改めて藤沢周平の『白き瓶(かめ)』を読んだ。昔、ご本人からいただいて、そのまま書棚に積んであった、節研究の第一人者大戸三千枝さんの著書『土の歌人-長塚節』にも目を通した。生前親しくしていた、木村修康さんの『茨城の風土と短歌』と、筑波書林社長だった菊田俊男さんのふるさと文庫完結記念文集『土の薫り』も、県西の文学的な空気を読む参考にした。

当日の天気予報は、午後は雨と出ていた。カーナビは目的地をきっちりめざしていたが、意外にも、下妻市内のレストランやコンビニの店員が長塚節や横瀬夜雨(下妻市)のことを全く知らないのには驚かされた。

「垂乳(たらち)根(ね)の/母が釣りたる/青蚊帳を/すがしといねつ/たるみたれども」高校の教科書にもある長塚節の秀歌である。いかにも正岡子規を崇拝(すうはい)万葉集に学んで自信を深めた輝きと、母への感謝が伝わる優しい歌だ。

32歳の時、朝日新聞に連載した小説『土』は当時、不評だったらしい。さらに、翌年発覚した喉頭(こうとう)結核により、生きたいがための一流の医学も悲痛な祈りも虚(むな)しく、節は36歳の若さで死んだ。「馬追(うまお)虫(い)の/髭(ひげ)のそよろに/来る秋は/まなこを閉じて/想(おも)ひ見るべし」気負ない誠実さと繊細さに満ちたこの歌がぼくは一番好きだ。節生家案内人の石山浩三さんに見送られ、予報通り雨が降りだして筑波山も見えなくなった鬼怒川の橋を渡った。


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アトリエ(3)

ある日のほろ酔いの夢

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土浦から(仮想)

土浦駅の駅中を東口に出ると、そのままヨットハーバーの上を高架の「動く歩道」が続く。湖面を渡りくる風が心地よく、救急艇が患者を運んできたのだろうサイレンの方に白いしぶきが見えた。終点が土浦協同病院だ。

霞ヶ浦湖畔にあった市営球場と、旧京成ホテル跡地五万坪に25階建800床のベット数の総合病院と医療大学。また、五階まではテナントビルで15階までが新市役所の30階建て、500人収容の会議場を有する高層市営ホテルが建った。荒(すさ)みゆく将来に危機感を持った商工会議所最後の提案「総合病院・都市型モール・市役所の3つを核とした再開発」に市が全面協力して出来た理想都市-。

看護学校に客員で行くようになり、校長を兼務する院長と飲む機会が増えた。そんなある日、ぼくが酔っぱらって語った夢の話だ。

「温泉ホテルがあって、映画館やギャラリーの入っているショッピングモールと病院と役所が駅直結ですよ。茨城空港経由で、アジアの富裕層が人間ドックにどっと来る。老人が自力で通院可能。車社会はもう終わりです。これからは田舎に一人でも便利に老後を暮らせる街に付加価値が付くんです。すばらしいなぁ」院長は笑って聞いていた。

「地域医療の充実だけなら気楽なんだ。ただ、この街の再興も含むとなると、ここしかない。もう歳(とし)だから最後の集大成かな」院長の静かな声が夢の中で確かに聞こえた。


小堀進が愛した湖畔

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水郷牛堀から

水郷潮来は水彩画家として初の芸術院会員となった小堀進の郷里である。北浦湖畔大賀交差点の傍に生家跡と刻まれた石碑がある。

先生は、昭和15年に水彩連盟を設立するなど、油絵に対して軽視されがちだった水彩画確立に貢献された。作品は、彩色を明確に、マチスの切り絵のように鮮明な画面構成で、特に郷土茨城の水郷の風景を得意とされた。その形象化された色にも造形にも、独特な世界観があった。5月に亡くなった鈴木俊一東京都知事時代、知事室に掛った先生の作品がテレビに映る時は、県民として誇らしかった。

ぼくが先生の葛飾のお宅を初めて伺ったのは、日展に初入選した25歳の秋だった。師匠の柴田祐作先生に、京成高砂駅からの道順と、途中のたばこ屋で「新生」を買ってお土産にすることなど、細かい指導を受けてのお礼の挨拶だった。二階のアトリエは、お人柄を映すように整理され、パレットの形をしたしゃれたセンターテーブルがあった。

しかし翌年冬先生は倒れられた。師匠と、小林晟さん、そして今は亡き山倉克己さん、茂木直喜さんら最愛の愛弟子に従って、ぼくもお見舞いに伺った。その時先生はご自宅の和室の布団に寝ておられ、枕元に当時は最新型の小さな赤いポータブルテレビが置かれていた。翌1975年春、先生は肺癌のためお亡くなりになった。享年72歳、日本芸術院会員になってわずか3ヶ月後のことだった。


取手松陽高草創のころ

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小文間から

「取手とうきゅう」閉店という記事を見た。想えば、駅前開発の走りだったこのビル建設中に取手松陽高は開校し、美術教師のぼくがいた。デパート側の協力で立ち上げた展覧会「新設校のおもしろ美術教育」を地元メディアが大きく報じ、中学生が大勢来た。勢い、2回生から芸大や埼玉大の合格者も出た。

当初は全部普通科で、選択芸術は音・美・書を設置し、クラス編成を芸術でやった。教師の平均年齢は県下最低だったが、みんな燃えていた。初代萩原由次校長は、金は出しても口は出さないタイプで、大物だった。

美術教育での遊びの体験が将来の生きる根になる。創作上の、感性や好奇心の高揚(こうよう)は、人間の個性や魅力づくりそのもので、答えが一つのペーパー試験のようにはいかない。芸術の奥深さの本質を体得すれば、必ず人は育つ。日本が長い間続けた金太郎飴(あめ)式画一教育からの脱却にぼくが気付いたのもこのころだ。

授業は、30号という大きなキャンバスに2人のモデルを使って全員が描いた。小貝川の土手にイーゼルを立てて、川面の風に吹かれながら自然を写生した。文化祭では学校中のあらゆるところ、庭にも階段にも作品を飾った。上手なことなど要求しなかった。ただ、本物の画材を与えて、本物のモチーフを大事に、本物から受ける感動の大切さを説いた。取手での体験は正に「美は人をつくる」というその後のぼくの教育観の原点となった。


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アトリエ(4)

わが青春に悔いなし

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東京・小石川から

「黒澤明生誕100年記念画コンテ展」を東京都写真美術館でみた。黒澤は先月95回展を終えた二科展に18歳で入選している。今と違い当時の二科には安井曽太郎をはじめ石井柏亭や坂本繁二郎がいた時代のことである。

特に『乱』『影武者』用の作品は、昨今の素人うけする技巧的なものとは違い、魂に響くポエジーがあった。スポンサー離れで苦しい時代に、それでも妥協しない映画をつくり続けた黒澤の執念が伝わる作品群だった。

さて、黒澤映画は全部みているが、中でも大学一年の時の『生きる』は、みる前と後では人生観が変わるほど衝撃だった。胃がんで余命半年と知った市民課長渡辺(志村喬)がその余生を懸命に生きて死んだ物語である。いい小説も音楽も絵も、またいい映画も若いというしかるべき時代に遭遇し、しかるべき影響を受けることが人生を開く鍵でもある。

「命短し恋せよ乙女/朱(あか)き唇あせぬ間に/熱き血潮の冷えぬ間に/明日の月日はないものを」主題歌『ゴンドラの唄』はまさに人々の永遠のテーマだ。人生をどう生きるかという、いわばとりとめもない夢の前に今日という現実がある。しかし、それもまだ若い時はいい。やがて肉体的にも精神的にも変調をきたすころ、人は真に大切なものが何なのかを知るのだ。恵比寿ガーデンプレイスで生ビールを飲みながらふと見上げると、うろこ雲が黒澤の絵コンテのように赤く染まっていた。


鉄は熱いうちに打つ!

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石岡・園部小辺り

毎年秋に八郷の巨峰が届く。土浦一高時代の生徒Iの親からだ。石岡市瓦谷というところでぶどう園を営んでいる。ピオーネという品種も入っていて、家族にも評判がいい。

確か卒業式の後だったと思うが、ぼくの研究室に夫妻でわざわざ挨拶に寄ってくれたことがあった。素朴で寡黙(かもく)な来客に、コーヒーではなくお茶を入れた記憶がある。あれから息子は筑波大に進学し、大学院を出て、社会人になった。それでも、今年もまた届いた。

美術部長だったこのIを、ぼくは2度叱(しか)ったことがある。一度は高2の時、2度目は大学4年の時だ。確か「自分の親の仕事が農業なので一高では肩身が狭い」と腹の内を語った日で、「農業はそれこそ総合力だ。美術しか知らない俺なんかとは違う。そんなすごい仕事で必死にお前を育ててくれる親をよくも軽蔑(けいべつ)できるな!」と。また、つくば美術館での退官記念「小牧幹とその教え子たち展」で、美術部のOBが各地から集結し、全館展示に汗していた時のことだった。終りがけに作品を抱えてやってきた彼を「一番近くにいるお前が今頃来てどういうつもりだ!」と。

それを境に音沙汰(おとさた)のなかったIが、一昨年銀座でのぼくの個展会場に就活姿で現れた。笑顔よく、好青年に成長して立派だった。案の定、その後大阪の製薬会社に就職して全国を飛び回っている。さて、今度出張でIが東京に来た時は銀座でゆっくり飲もうと思う。


父に呼ばれた最期の朝

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手野の蓮田から

あの朝ぼくは出勤のため、いつもの時間に家を出た。しかし、気がつくと、車は全く逆の、父が入院している土浦協同病院に向かっていたのだ。途中、土浦市手野の信号わきの小さな郵便局の駐車場に車を止め、8時半ちょうどに公衆電話から年休の連絡を入れた。

父は集中治療室でつながれたままだった。連日泊り込んでいた母は、父の傍らですることもなく付き添っていた。「親父」と声をかけた。聞こえたように確かに反応した。それから、間もなく父の器官は止まった。ぼくが病院に着いてわずか30分・・。父の病気は多発性骨髄腫で発症から8ケ月、66歳だった。

あれから20年が過ぎ、これも不思議な縁だが、今、同病院付属看護学校で教鞭をとっている。あの郵便局もコンクリート打ちっぱなしのしゃれた造りに変った。相変わらず渋滞のくねくね坂を下った信号わきの赤い電話ボックスはそのままで、東京への帰り道など、傍らを通るといつも父のことを思い出す。

改めて言うことでもないが、若い時は父の傘の下でずいぶん庇護(ひご)されていた。健康で、その上したいことがあって生きられたら、それだけですばらしい。名誉や肩書も、よくよく考えると曖昧(あいまい)な価値観にすぎない。「遠いと見舞いに来てくれる人に悪いから」と、病院を東京の慈恵医大から地元にかえた父の気持ちも理解できる年齢になった。あとは父の分まで意義ある日々を歩みたいと思う。


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アトリエ近隣(鹿島灘の海)

絵をよみ解く目と心

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小雪(しょうせつ)の夜(旧明野町)

第42回日展が、一カ月以上の長丁場で5日閉幕した。ぼくは、特別な今年の奈良に寄せて、二月堂からの美しい平城京の印象を形象的に描いた「大和しうるはし」を出品した。

解説には「長年いろいろやってみて、ようやく確立した自分の絵画様式を試みた。いわゆる、空を大きく、主題を下に抑え、全体をギリギリまで要約した構図だ。大仏殿と突き出た松のバランスと、広い天空を支えるに足る厚いマチュエールだけの簡素さで、わかりやすく、奈良遷都千三百年の歴史的イメージをぼくの気持ちの色で表現した」と記した。

会場当番の日、希望者に「ミニ解説」というのがあって、自作品解説に困ったぼくに代わって、先輩格のM氏が「絵は、色彩と造形と空間の三要素で成立するもので、正にこの作品は描きたいものを集約し、究極まで削り取って構成的に絵画としている。細部までいろいろ説明する絵が多い中で、このように、キャンバスとの戦いを通しての精神性がこちらに伝わってくる絵は日展では希少なんですよ」と説明してくれた。いや、恐縮だった。

「絵は『みる』のではなく『よむ』ものである」とは先達の諭しでもあるが、今日そういうことに耐えうる作品がますます少ない。ぼくの場合、骨太で、常識の範囲を超えてなお品格のある作品探求が目標だ。「絵というものは、所詮(しょせん)みる人の心の深さだけしかわからない」と言った中川一政の言葉が浮かぶ。


放蕩息子が帰ってきた

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レストランの窓から・つくば市

専門外だから詳しいことは分らないが、日本の探査衛星「はやぶさ」が60億キロを飛び続け、7年を要して小惑星「イトカワ」から奇跡の生還をし、さらに、かの星の微粒子まで持ち帰った今年のニュースは感動だった。

しかも幾多の故障やトラブルから、一旦は諦(あきら)めかけたスタッフの文殊(もんじゅ)の知恵を絞りこんでの見事な成果だった。ロボットなのに、まるで家出していた放蕩(ほうとう)息子が帰ってきたように愛(いと)おしかった。近年これほど心が晴れ晴れとして感涙抑えがたかったことはない。

芸術には知識と知恵のバランスが重要だ。同じく科学も、あのニュートンが林檎(りんご)の木を眺める気持ちがなかったら引力は発見されなかったろう。真理は、ただ単に知識を詰め込めば見つかるものではない。求めようとする先ではなく意外なところに潜んでいるという広い視点と応用が必要なのだ。そういう勉強つまり、serendipityが大切だ。

「いい加減」という日本語がある。素晴らしい言葉だとぼくは思っている。特に絵の場合、よいころ加減が大切だ。隅から隅まで説明するより、曖昧(あいまい)というか、はっきりさせないでみる側によんでもらう部分を残したくらいの方が作品としての奥が深い。つまり、遊びがあるくらいの絵の方がみて楽しいのだ。芸術も科学も、あるいはスポーツでもそうだと思うが、所詮(しょせん)そういうセンスとエスプリで勝負は決まるものだとぼくは思っている。


『うさぎ』が聞える年賀状

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湖畔の散歩(行方市玉造)

鹿(ろく)行(こう)地域からは3人の版画家が出た。1924年生れの巻(まき)白(はく)、そして31年の靉嘔(あいおう)、34年の堀井英男である。それぞれ独自様式を確立し、世界を舞台に活躍した。靉嘔は昨年4月つくば美術館開館20周年記念で回顧展を開催し存在感を示したが、巻白と堀井はすでにいない。

靉嘔の生れは、ぼくの育った町内で、母方の実家は窓から見えるほどの近場にあり、親戚筋でもある。堀井は潮来高校の卒業で唯一芸大に進んだ一人だ。その際、彼に多大な影響を与えた後藤市三先生とは生前大塚駅前で何度か飲んだことがある。噂に聞いた豪快な方だった。巻白はぼくの通った小学校の教頭だった。図書室前に「小高(おだか)小図書室」と先生が彫刻刃で彫った大きな看板が掛っていた。

さて、手元に1枚の小さな版画がある。巻白先生からいただいた年賀状の一枚で、1987卯年のものだ。まっ白な葉書の真ん中に♪=’87と書かれた五線譜があり「ファ・ファ・ラ・シ・ラ・シ」と音符が置かれ、上の余白の真ん中にうさぎの目のような赤い丸が一つ描かれているだけ。この洒脱(しゃだつ)さには脱帽だ。

賀状作品から、先生のお人柄、ユーモアのセンスが伝わってくる。お子さんがなかった分、人に優しかった。ぼくの妻などは逗子のお宅を伺う度に感激した。ぼくの絵も欠かさずみてくださった。今でも銀座並木通りの養清堂画廊の前を通ると、先生がひょっこり現れるような気がして立ち止まることがある。


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アトリエ(5)

On the job training

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峰寺山西光院

ぼくが教師だったころ、美術室で大作を描いていた。いや、描くというより、むしろ見せるという方が当たっていたかもしれない。

実際には落ち着いた制作などとてもできないが、それでもなるべくぼく自身がキャンパスと格闘していることが分かるよう毎日加筆して、その過程を盗み見させることが教育上必要と考えていたからだ。およそ、芸というものはそうやって、先達の技術と、自らの工夫とをからみ合わせながら上達していくものだと思う。そのうち、1+1が2というような決まり切ったことではないということを生徒達はだんだん理解していくのである。

ぼくは高一の時から絵を始めたが、学校の美術部には入らなかった。先生が、自分では作品を描かない資格だけの教師だったからである。でも、近所の画家には指導を受けた。公募展にも出品した。それが一流の芸術家に出会う近道になった。部活ではなく、いきなり芸事の道に飛び込んだことで数々の先輩画家の背中を見てきた。生きた勉強だった。

背中を見せることの意味は大きい。顔からでは私情が入るが、背中からはダイレクトに仕事の中身が見える。力量がわかる。教師の力量に感動するような生徒は必ず伸びる。大切なことは素直さが存在するうちにオン・ザ・ジョブ・トレーニングに徹することだ。一方で、見られて恥ずかしくない仕事を教師もまた自覚と覚悟の上でしなければならない。


心安らぐイタリアの村

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AZ784便から

南イタリアのオストゥーニに三日ほど滞在した。ここは城壁で囲まれた旧市街地のある丘の街だ。ふらっと出掛けたのだが、午後になると海風が強く、ずいぶん南なのに内陸のマティラなどよりずっと寒いのには驚いた。

オリーブ畑の丘の上に密集して広がる白い建物群、そして、その向こうにアドリア海が青く輝いていた。もちろん今もここで生活する人がいて、よく見ると、室内は狭いが、近代的な設備が整い、上手にリフォームしているようだ。新建材が多い日本に比べると、この国は古いものを生かして使う技術がかなり高い。そうかと思うと、ハロゲンやLED照明を要所にさり気なく使ったりしている。

珍しいのだろう、「日本人か」と問いかけてくる。そして、その男たちは誰もこの村がイタリアで一番だと自慢をする。さらに、もうおれは十分働いてきたんだと言いたげな顔つきで、昼間からバールのカウンターで酒を飲みながらこっちを眺めているのだ。

ここには外国風なものは一切ない。ただたおやかな歴史の流れだけが静かに今も時を刻んでいる。すり減った石畳、百年は経ったであろう黒光りの木製ドアがとても人に優しい。スケッチをやめ、彼らのいる店でエスプレッソを注文した。近代化という便利さを求め続けてきた日本のぼくたちにはもうお目にかかれない古い三輪自動車が、目の前の狭い坂道をかなりのスピードで通り過ぎて行った。


手作りの花の咲く家

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アトリエの筑波

時々アトリエに来客があると、母は決まって「お土産に」と、家の周囲に咲いている季節の花を摘んでは古新聞紙に包んで玄関先に用意しておいてくれる。花に限らず、時には株分けした鉢物だったりする。花の好きな母は、土づくりから全て自前で、種や挿し木から培(そだ)てるのはプロ級だ。真冬のころはともかく、敷地はいたるところ花であふれている。

今、この時期は数種類のスイセンがあちこちに咲いていて、とりわけ日本水仙の可憐さはいい。部屋の中に置くと、それだけで明るくなるし、何よりこの花の香りは格別だ。先日も来訪した友人から、母にもらったスイセンがまだ咲いていると写メールが届いた。

いつだったか、母に「どうしてそんなに花作りしているの」と尋ねたら、「仏さまに供えるためだよ」と答えた。父が逝って21年、奇(く)しくも今日17日が命日だ。母はこの間、週に一度は愛用の三輪自転車で近くの菩提寺の父の墓参を続けて来た。しかし、米寿の今は身体が思う様にはならないようで、遠慮がちに「車で行ってくれるか」と言う時もある。

それでも、曲がった腰を押してはアトリエ側の温室の天窓の鎖を、決まった時間にガラガラと引いて、朝に開け、夕方に閉める母の姿がある。時々ゆっくり寝ていると、その音で目が覚る。和室の前の植え込みに花ものは似合わないのだが、あの話を聞いてからというもの、ぼくは目をつぶることにしている。


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アトリエ(6)

「育ち」という人の品格

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平沢の梅林(つくば市)

先日、師匠の日野耕之祐先生と「育ち」ということを話題に雑談した。要するに、人というものは、若い時は品行方正でも、50代ごろから地というか、育ちが表に出るというのだ。自分のことも含め改めて考えてみた。

ぼくは38年も高校教師だったから多くの教え子がいる。それは15~18歳という世代のわずかな関わりだが、大部分は純粋で爽やかな印象のまま心の奥に残っている。しかし、卒業後のことは、ほとんどは全く分からない。

あれは確か、彼らが43・4才ぐらいで、卒業してから25・6年経ったころのクラス会に招かれた時のことだった。一枚の名刺をもらったがために、建築リフォーム詐欺にかかり痛い目にあったことがある。当時はバブル崩壊後で、恩師をもカモにしなければ生き残れない時代だったのだろう。社会に出て、海千山千を超えるうちに、人は予想外に変貌するものだとしみじみ思い知った出来事だった。

芸術の世界も「作品は人なり」と、教育とよく似ている。まして、団体などの人間関係の中にいると、初めのうちはいいが、賞などを貰って有頂天になったとたんに人が変ってしまうようなことがある。作品と人が合わなくなる。品がないというか、美意識に教養という「育ち」が出るのだ。芸術に関わるということは、そういう点で自らの品位の確認でもある。気をつけなければならないと思う。


故郷は遠きに在りて…

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強東風吹く浪逆浦(神栖市)

東関道を潮来に向かって走り、香取インターを通過し、切通しを過ぎるといきなり前方が180度開けた台地の際に出る。まるで飛行機が空港上空で着陸態勢に入った感じだ。左に筑波山、右に鹿嶋コンビナートと、関東平野のパノラマは円形に歪み、瞬間地球の丸さを感じる。下には日本一の大河坂東太郎(利根川)がゆったリと横たわり、夜であればコンビナートを照らす灯(あか)りが、まるで東京に舞い戻ったように輝いて見えるから圧巻だ。

一望の沃野は「常陸なる/浪(な)逆(さか)の海の/玉藻こそ/引けば絶えすれ/あどか絶えせむ」と万葉集にも詠まれた美しい、水郷・筑波国定公園である。茨城の誇る山紫水明の代表だ。

ぼくはこの歳になってようやく自分の育った故郷に仕事の原点があることを知った。ぼくと同じ歳のピアニスト、ジョージ・ウィンストンも、あのおおらかな曲の原点は、幼年期を過ごしたモンタナ州だという。若い時は気がつかなかったが、確かに、そう思う。

それは、誰でも若い頃はそうであったように、外への憧れというものに冒険を試み、それを果たす過程で改めて感じる幼き頃の母の匂いともいえる郷愁が、他ならぬ孤独な自分に優しいからか。犀星や啄木を紐(ひも)解くまでもなく、故郷とは離れてこそ意味をもつ訳はそこにあるのかも知れない。「故郷の山はありがたきかな」と詠んだ啄木のような「こころ」を凛(りん)と持ち続けたいと思う。


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アトリエ(7)

Now and then(未掲載)

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桜筑波(筑西市)

人は誰でも「あの時ああしなかったら・・・」という悔恨(かいこん)を胸に秘め、今日という日を生きている。ぼくも例外ではない。風のように走り過ぎてきた半世紀だったが、今になって想えば悔やまれることの方が多い。

若いころはよくも考えずに事を起こし、それでも何とかなったのは、やはり父や母の後ろ盾という大きな存在があったからだろう。身内に限らず、物言わずとも伝わる心の情を共有できる人の存在は大きい。気がつけばいつの間にか、大切な人々とたくさんの別れを経て、孤独な道を歩いている自分がいた。

仕事にしても、生きがいにしても、いろいろ挑戦をしながら人はそれぞれ自分の夢を拓(ひら)いて行くのだろうが、本当にそれが最適だったかどうかは分らない。ぼくの場合も、「絵」が自分にとって最良の道だったかどうかはまだ分からない。しかし、ちょっとした弾みでこれを続けたことから今があるわけで、好むと好まざるとにかかわらず人は案外単純な動機で人生を決めているような気がする。

そういう点で、たいがいのことは才能よりむしろ継続だと思う。あとは飄々(ひょうひょう)と歩めばいい。地道にコツコツ精進すれば、山川はあっても必ずそれなりになんとかなる。そして、その長く苦しい旅のみち連れが人の情だと思う。今も多くの人々に勇気をもらいながら歩いているが、ふと立ち止まって思い出すのはあの時の苦(にが)い反省となつかしい人のことだ。


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